青木繁 1882年(明15)~1911年(明44)
明治15年(1882)、福岡県久留米市に旧有馬上青木康吾の長男として生まれる。
久留米高等小学校では同級生に坂本繁二郎がいた。明治28年久留米中学明善校に入学、同級に梅野満族がおり、翌年頃から森三実につき洋画の手ほどきをうける。
32年明善校を退学。洋画家を志して上京。小山正太郎の不同舎に入門する。翌33年東京美術学校西洋画科に入学。この頃から上野の図書館に通い、哲学、宗教、神話、文学書に親しむ。
明治36年第八回白馬会展に神話画稿を出品、第一回自馬会賞を受賞する。37年美校を卒業。
同年夏、坂本、福田たねと房州布良に遊び、「海の幸」を制作する。この年の秋より、蒲原有明との交遊が始まる。
40年「わだつみのいろこの宮」を東京府勧業博覧会に出品するが、三等賞末席となり、審査の不信不満を新時等に発表、中央画境を痛烈に批判し、画境と決別し以後不週の時代を送ることとなる。同年夏、父危篤のため帰郷する。
翌41年家族と衝突し家を出て放浪生活に入り、以後、貧困と病苦のなかで天草、佐賀地方を転々とする。42年7月、佐賀に旧師森三実を訪ねる。秋以降、佐賀にあって手記、歌集を残し翌年の元旦を佐賀市妙安寺小路の三根徹郷宅ですごす。こののち小城町の平島信を頼り、8月には唐津に遊ぶも、病状悪化のため小城、古湯での療養甲斐なく、福岡松浦病院に入院する。
明治44年(1911)3月25日、弱冠28年9カ月の生涯を終え、天折の画家の第一号となる。